ZOU-NO-HANA CINEMA
象の鼻テラス海辺の映画会vol.13 関連展示 「ミリキタニの猫 展」
期間: | 2021年6月28日(月) ー 7月10日(土) |
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会場: | 象の鼻テラス |
アーティスト: | ジミー・ツトム・ミリキタニ |
(Jimmy Tsutomu Mirikitani 三力谷勤) | |
主催: | 象の鼻テラス |
協力: | Masa Yoshikawa、佐藤哲郎、藤岡朝子 |
ZOU-NO-HANA CINEMA 象の鼻テラス海辺の映画会 vol.13 『ミリキタニの猫《特別篇》』の関連企画として、ニューヨークの路上で描き続けたジミー・ミリキタニの絵画作品の一部を展示。
彼が好んで描いた猫や、日系人強制収容所、原風景である“故郷” ヒロシマの風景や動植物など、迫力と魅力溢れる数々の作品をご覧ください。
Linda Hattendorf 提供
©︎Jimmy Tsutomu Mirikitani
©︎Jimmy Tsutomu Mirikitani
■会期
2021年6月28日(月) ー 7月10日(水) 10:00~18:00
*会期中の金曜日・土曜日は、19:00まで開館延長
■映画上映
日時:2021年7月5日(月) 19:00ー (開場:18:30ー)
場所:象の鼻テラス
料金:2,000円 (ワンドリンク付き)
詳細はこちら
■アーティスト プロフィール
佐藤哲郎撮影
ジミー・ツトム・ミリキタニ
(Jimmy Tsutomu Mirikitani / 三力谷勤)
(Jimmy Tsutomu Mirikitani / 三力谷勤)
ジミー・ツトム・ミリキタニは「三力谷雪山(せつざん)」という雅号とともに、青少年期に教わったという川合玉堂と木村武山の名前を描く絵に書きいれることが多い。「雪山」という雅号は戦後ニューヨークに移って出会ったコロンビア大学で教えていた角田柳作がつけてくれた名前だそうで、1950年代頃までは「三力谷萬信(みつのぶ)」という木村武山につけてもらった狩野派の雅号を使っていた。
ジミーこと三力谷勤(みりきたにつとむ)は広島出身でアメリカに移民した両親、市太郎と美登の三男一女の末っ子として1920年カリフォルニア州サクラメントに生まれた日系2世である。父・市太郎の兄弟は多くがアメリカに移民したため、日本でも珍しいミリキタニ姓がアメリカに多くいる。ジミーの生後ほどなくして一家は父の故郷である広島県佐伯郡五日市村(現広島市佐伯区五日市)に再移住するが、母は肺を患い若くして病死する。
小さい頃から絵心があったというジミーは、20歳の頃に「優れた日本の芸術を世界に紹介する」という大志を抱いてアメリカに「帰国」。当時結婚してシアトルに移住していた姉の元に寄留する。1941年12月7日に真珠湾攻撃が起こり、日米開戦。翌年、大統領令によって、アメリカ西海岸一帯に住む日系人は強制収容されることになり、ジミーはカリフォルニア州北端のツールレイク(トゥーリーレイク)にある「日系人強制収容所」に抑留される。ツールレイクは10ヶ所ある日系人強制収容所の1つだったが、その後「敵性」と見なされた日系人を集める「隔離センター」となり、他の収容所から親日派とみなされた人たちなどが送られてきた。そして1944年の終わりから1945年始めにかけて5,000人ほどの日系人が米国市民権を「放棄」した。
1945年8月6日、「故郷」広島に原爆が投下され、ジミーの母方の一家(広島の横川町)は全滅したという。終戦後、日系人強制収容所は閉鎖されても「市民権放棄者」のジミーは米国生まれにも関わらず解放されず、「日系人強制収容所」(戦争中にアメリカ陸軍の主導で設立)とは趣の異なる、司法省移民局の管轄下にある収容所に送られる。その後半強制収容のような形でニュージャージー州にあるシーブルック農場に移り、低賃金労働に従事する。
後に自由の身となったジミーは、ニューヨークで料理を学び、その後数年間は東海岸の各地のレストランをコックとして渡り歩いたようだ。そのため、ジミーには市民権回復の通知が届かなかった。
1960年代後半にニューヨークのお金持ちの住み込みの料理人となったが、1986年にその雇い主が亡くなったあと、ジミーの足取りは公的な記録から消えてしまう。自身が「サイドウォーク(歩道)の時代」と呼ぶ路上生活が始まったようだ。ワシントンスクエア公園、チャイナタウンの公園などで暮らしていたようで、一時期はイーストビレッジにの教会が主催するスープキッチンに毎週通っていた。
2001年1月、ジミーはソーホーの韓国デリの店の脇で絵を描いていた。通りかかったリンダ・ハッテンドーフは猫の絵に惹かれ、声をかけたことがドキュメンタリー『ミリキタニの猫』のきっかけとなる。その後ほぼ毎日のようにリンダはジミーのもとを訪れるようになる。そして9月11日、テロ事件により世界貿易センタービルは崩壊。ジミーがいたソーホーは貿易センタービルに近く、煙の中1人で描き続ける姿を見かねたリンダはジミーを自宅に招きいれる。リンダはジミーの過去について調べ、彼の市民権が1959年に回復していたのを発見する。また、日系人団体を通して60年間音信不通だった姉の消息がわかる。その後ジミーは徐々に心を開いていき、それまで拒否していた社会保障制度を受け入れるようになり、2002年にマンハッタン、ミッドタウンの高齢者マンションに入居する。
2006年4月、ドキュメンタリー『ミリキタニの猫』が完成。トライベッカ映画祭で初上映され、観客賞を受賞。その後世界各地の映画祭で数々の賞を受けた。
2012年10月21日、ニューヨーク、ルーズベルト病院にて、脳内出血のため死去。享年92歳。
同年11月、ジミーがツールレイク収容所を描いた作品が展示された『尊厳の芸術展』 (The Art of Gaman) が東京藝術大学大学美術館で開幕。2013年夏まで、日本国内計5都市で巡回展が開催された。